偲ぶ

 親が急逝してから時間が経ち、一時期は有料のカウンセリングを活用しながらも少し落ち着いてきました。不思議なことに亡くなってから告別式を執り行うまでの一番キツかった数日間の記憶が所々欠落しています。自分の人生観や死生観・家族観を問われて何が辛いのかわからないほど心が灰色でぐちゃぐちゃだったあの時間、自分が何を思っていたのか後のためにメモしておけばよかったなぁ。

 うまく言語化できないけれど、人ひとりこの世からいなくなるって凄まじいことだという思いと、あっけないことだという思いの両極端な印象がありました。「人は死んだらどうなるんだろう」漠然とした問いの答えは親の死から教わるのかなと思っていたのに、あまりに急逝したので橋を渡る後ろ姿を見つめる暇がなかったです。
 きっと本人はまさか自分がもうすぐ死ぬとは思っていなかったはずです。私が病院に着替えを持っていって看護師さんに渡したとき、ガラス扉を隔てた向こうで親の姿が見えました。トイレに行きたいと、看護師さんと普通に話していたのです。その夕方、医師の話では「心臓が急に止まった」とのことです。(コロナ対策で直接会うことができなかったことが悔やまれてなりません。後から振り返れば亡くなる直前だったその時、一言でも言葉を交わしたかった…。)
 八十数年生きてきて家庭を築き、物心両面の様々なものを世に残したはず。それがある日突然意識を失い、生命を失い、数日後には肉体も失う。なんというあっけなさだろうか…。そしてやがて私もそうなるのです。心の底から死が恐ろしい。と同時に、悩みごとの大半に意味などなく「生きてるだけで丸儲け」なのかもしれないとも思います。

 「相続」はこういう人の死によって引き起こされる。冒頭に記したようなキツすぎる日々を経て遺族は銀行の店頭や司法書士のような専門家のところに辿り着くのですね。店頭でそういうお客様を迎えたとき、枕詞のように添えていた「ご愁傷さまでした」の言葉が口だけだったとよく分かりました。

 死を通じて教えてくれた親の最後の教えを胸に、依頼人に寄り添う専門家になりたいです。