3.11の記憶

揺れだしたときフロアで女性社員の悲鳴があがった。
「このゆれ方は尋常じゃない」と思った。
咄嗟に扉を開け、現金・書類が無くならないよう押さえた。
職場の機械が止まらないか心配だった。

その日を何とか締めた後、交通マヒを知る。
会社に泊まるか歩いて帰るか判断を迫られる。
会社に泊まったほうが安全だが、
自宅で一人待つ相方が心配で歩いて帰った。

会社を出たら歩いて帰る大勢の人がいた。
電車は止まっていたがバスは動いていた。
でも道は大渋滞で動いてないも同然だった。
携帯は繋がらない。
公衆電話はお金なしで電話を掛けられ長蛇の列だった。

歩いて帰る夜道は寒かった。
表参道付近であるお店で炊き出しをやってた。
寒い中で多くの人に豚汁が振舞われ助かった。
ありがたい。

ようやく渋谷。
コンビニにはもう飲食物がほとんどなかったが
僅かに缶ジュースを飲み一休みした。
携帯の充電池は売り切れ。
以来今もカバンには予備の充電池を入れている。

道は大混雑。
その頃、地下鉄銀座線は動き出したようで、
会社で待っていればよかったと後悔。
ある若い兄ちゃんに道を尋ねられた。
「水道橋に行きたい」という。
完璧に方角を間違えていたので、
地図を見せて道を教えた。
それにしても渋谷-水道橋とは遠い道のりだ。
あの兄ちゃんが無事にたどり着けたのか気になる。

線路に沿って再び道を歩き始めた。
同じ電車で通勤している「仲間」が大勢歩いていた。
冷え込みは厳しく、自動販売機の
「温かい」飲み物が有難かった。

足は相当痛かった。

歩き始めて6時間。
ようやく家にたどり着いた。

帰宅して2chやTVで情報収集。
改めて報道に接して大変なことが起きたと知る。
携帯からは「ヴィンヴィンヴィン!!!」と
初めて聞くような地震通報がなり続けた。
あの音は本当に心臓に悪い。

ほとんど徹夜で情報を収集した。
翌日、缶詰や水、緊急用品をとりあえず買った。
周囲ではまだそういう動きはなかったけど。

翌日福島原発爆発の報せ。
2chでは東京に放射能雲が来ると大騒ぎだった。
月曜日出勤するか、東京から逃げるか、と。
でも僕には出勤するしか選択肢はなかった。

TVからは例の「直ちに。。。」会見。
本能的にヤバイと思った。
月曜に備えてマスクも買った。
家の換気扇をテープで塞いで、水をタンクにためた。
アニメ「風が吹くとき」が脳裏に浮かんだ。
会社の連絡網で電話が来てたらしいが
僕の携帯には掛からなかった。

相方を飛行機に乗せて逃がした。
避難者が殺到していつ空港が使えなくなるかも知れない。
おかげで初期の大被曝をさせずに済んだ。
一人身になって身軽になりたいのもあったけど、
でももう二度と会えない気がして辛かった。

僕は理工好きだったので
偶然ガイガーカウンターを持っていた。
数値が出るものでなくプツプツと感知音がするやつ。
それを月曜出社時、鞄に忍ばせた。
朝計ったとき、プツプツと感知音がしたが
普段と同じようなレベルだった。
まだ大丈夫かな?と思いつつ
でもマスクを二重にして出勤した。
電車でも会社でもマスクをしてる人はいない。
さすがに会社に入ったらマスクを外さざるを得なかった。

正直、仕事どころではなかったが
目の前の業務をこなさなくてはならなかった。
通常業務に加え震災対応業務も増えた。
帰宅したら2chで情報収集。
東北各地では津波による甚大な被害が生じていた。
原発は「大丈夫→実はヤバかった」という報道の連続。
不安とストレスはとても大きかったが、
それでも緊急事態で仕事は休めなかった。

カバンにガイガーカウンターと現金100万円程度を
いつも通勤時持ち歩き、来る「緊急避難命令」に備えた。
3~4日経ったらカウンターの計測音が少し増えた。
まだ針は安全範囲を指していたが、
目に見えない放射線
確かにそこにある恐怖があった。
でも「緊急避難命令」はなく、
お金も銀行の口座に戻した。

国も会社もその場に止まり普段どおりの生活をしろという。
疲労はピークに達していたが、町は普段どおり。
普段どおりでいいはずがないと思いながら・・・。

そして、それは今も続いている。